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自習室

こもります

最下位スタートの再開

最近僕に欠けていたのは、自分の思考を映してその醜さを思い知らせてくれる鏡であり、その醜さを受け入れてくれる器*1であり、自分の醜さを受け入れられない自分自身のずるさだったように思う。

その自分の醜さが、今の自分の良いところも作り出しているに違いないのに、醜いという外面だけから判断してその部分を排除してはいけない。自分のコアである部分を排除しようという行為は、すでに僕の中にたくさんの問題を生み出しているように思う。ちょっと怪我したからといって、もっと痛いとわかってるのに、自分の指をはさみでちょん切る奴がどこにいようか。

そもそも醜さをちゃんと見つめようとしないから、横目でちらっと見るだけだから、ちゃんとその形や色や、どくどくと脈打つ命、したたる血液を感じ取ることが出来ないのだ。それらは一見グロテスクで直視できないものかもしれないけど、いうなればそこに生命の美を感じ取っても良いはずだ。

思考を文章にする

思考を文章に記すと

  • 曖昧にごちゃごちゃと、順序もなく考えていることに流れを作る
  • 日本語を当てはめ、文字に起こす

の二段階を経て、当初のものからはかなりかけ離れたものになるのが通常である。物語やブログや論説といったジャンルを問わず良い文章とは

  1. 思考からもっともらしい流れを「創作」し、刺激的な日本語で装飾されたもの
  2. 思考を本当に純粋に見事に文字に書き出されたもの

の二つに分けられるように思う。
絵画には偶然がある。絵画は当初は記録のために発明されたかもしれないが、その役目はほぼ完全に文章に受け渡した結果、芸術という方向に独自の発展を始めており、それは未だに最中である。ある基準に従って共通理解を可能とする必要は無いので、現在でも無限に新しい手法が生まれ、その中で偶発的にある特定の相手にのみかもしれないがガチコン響く絵画が生まれ続けている。 そういった意味で文章に偶然はあり得ない。

ブログの目的

タイトルに「発散系」とつけたのは、のっけからネタバレになるが自分への皮肉である。
このブログの目的は、完全に発散系(どこにも収束しない、無駄で、危険な)だった僕の思考に計画的に「目標」という名の秩序を与え、その目標に自分が向かっていることを常に「文章」を通して自分自身に確認させることである。

  • 計画的な目標という名の秩序
  • 文章に起こす

という二点において、僕の恣意や技術要素が入る。言い換えると、自分をより健康的で多少野心的でほんのり輝いた未来に導くために、ブログというフォームの上で技術的に工夫してみようというコトだ。
自分の将来を語る上で、自分の存在を社会に還元するという考え方を忘れてはいけないだろう。かみ砕いて言うと、大学の研究室でがんばり就職してがんばることだが、それはあくまで僕の「出力」であり、内面を健康的かつ野心的かつほんのり輝かせることがその実として根ざしていている必要が、少なくとも今の僕にはある。忙しさに食われて闇雲にやれることに手をつけた結果が今の僕だ。

前節で書いた「二つの良い文章」で言うと、僕が目指すのは前者である。恣意的かつ自己啓発的であればあるほど良いと思う。その点でブログは最適なツールと言えよう。言葉を選んで自分をうまく誘導し、常に無駄なくフィードバックをかけていこう。そうやって僕は次のステップに進んで行かなくてはならない。

*1:「そんなことを他人に委託しようという考えは甘えだ」と言うのならその点については全面的に受け入れます。ただ僕は、僕を支えてくれるような人(性別問わず)の存在そのものが幸せであり、その人をいっそう強い力で支えて、高いところまで一緒に行ってみたいと思ってるんです